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第6回「学生スポーツとコンプライアンス」講演会

   
森田 恒雄
立命館スポーツフェロー副会長
2013年(平成25年)
9月28日(土)
立命館大学衣笠キャンパス 

 全国に大学と名の付くのは放送大学を別にして約780校あるようですね。その中で文武両道をうたっている立命館大学で学びたい、またスポーツをしたいという君たちです。志の非常に高い学生諸君が今日この場ここにいるのです。入学したという喜びが6ヶ月過ぎているわけですから、だんだん薄れてきてるかもしれませんけど、合格発表を聞いた時の喜びは残っていると思います。必ず4年間で卒業するようにしてください。

 私は、37年間ほど中学校に勤めていました。退職して教育委員会に10年ほどおりまして、この3月に退職したのであります。その間の経験から話をしていきたいと思っております。
 知・徳・体というような話もありました。知というのは教養や確かな学力を身につけ賢い子を作るということなのです。徳というのは倫理的においても道徳的においても正しいことが判断できる子を作るということなのです。体というのは健康で丈夫な体を作るということなのです。
 文武両道とは、口で言うのは簡単なことですが、医者とか弁護士など世間で言うトップ級の肩書きのある人が一流選手であるということはなかなかないですね。だけども、それを目指しているのが立命館大学ですから、それに近づくように学業においてもスポーツにおいても、そのような成績を是非残してほしいなと思います。

 私は中学校や教育委員会というところにおりましたけれど、その中で何を学んで何を子供達に教えてきたかといえば人権なのです。基本的人権を保障するということを一貫してどこの学校においても教育委員会においても教職員に対しても、そういう話をずっとしてきたのです。大学のスポーツ界の中においていろんな不祥事があります。人権というようなものを頭の中に置いて、人権感覚があれば多くの問題行動というのは防げたのではないかと思います。ところが体罰やいじめというようなことが現実にそれぞれの学校の部活動の中では大なり小なりあるのだと思います。

 学校では体罰の問題においては親の考えが180度違います。「子供に小指が一本でも触れたら承知せんぞ」という親もいれば、「体罰なんであたりまえのことだ」「学校においては先生は親のかわりをやってもらうのだからバシバシやって下さい」という親もいるのです。体罰はいけないということを法律で定められているのに関わらず、これは現場ではなかなかなくならない。未だにこの世情のなかにおいても体罰という問題が新聞を賑わすのです。それは学校だけでなく部活動の中でもあると思います。君たちは中学、高校といろんな部活動をしてきたと思います。部活動の中で体罰を受けた、あの先生にこんなことをされた、あんなことを言われたということを頭の中で思い浮かべたということもあろうと思います。そのことによって本当に自分は精神的に立ち直った、肉体的にも立ち直った、いい成績につながったという人もいるでしょうし、あれが憎くてあればなければもっと違う人生を歩いたという生徒もいるのです。

 体罰、いじめというようなことをずっと突き詰めたら、人権というものにつながっていくと冒頭に言ったように思います。人権問題ついて、君たちは中学校でも高校でも学んだと思います。法的に昭和44年に決められて平成14年までやってきたのです。それは学校教育の中でも同和教育ということで学んできただろうと思います。

 ここで一つだけ学んでほしい、差別とは何かということを学んでほしい。差別とは何かというと、どこに住もうがどこに生まれようが差別を受けるということなのですが、そういうもので誹謗や中傷されることはないのです。自分がいかに努力してもどうすることもできないことで不当な扱いを受けることが差別なのです。具体的に言うならば、女性差別というのがありますが、女性はいかに努力しても男性にはなれないでしょう。どうすることもできないことで差別を受けるということを頭に置いたのならば、今どういう行動をしなければならないのか、どういう発言をしなければならないのか、どういう態度をとらなければならないということが、検討できる年齢になってきているのです。もう高校生でなく大学生なのですから、そういう行動なり言動ができるということになってきていると思います。
 ところが体育会というものは、試合においては、観客が言うならまだしも、プレーヤーが相手をなじるというのを平気でやるのですよね。相手のプレーをなじったり審判にいろんな事を言ったり、いろんな不平不満を言う。そのことで相手に傷をつける、相手を誹謗中傷するということは、厳に戒めていかなければ、言ってはならぬことは言ってはいけないのです。してはならないことはしてはいけないのです。肝に銘じておかなければふっと出るのです。日ごとからそういうものを鍛えておかないと出るのだということを知っておかないと、自分の人格というものを相手に認めてもらえないという、とりかえしのつかないことに発展してしまうから十分に気をつけてほしいなと思います。

 それと、形式的な平等と実質的な平等というものを君たちは学んできたと思います。パンが3つあり3人います。この3人にパンをどういうように分けるか。1つづつ分けるというのが形式的な平等です。実質的な平等というものは、3人いれば3人の条件が違うと思います。同じ条件ならば1つづつ分ければいいと思いますが、その中1人は朝からご飯が食べれない、パンを買うお金もないとする。1人は1日3食のうち2食まで食べられるとする。1人は満腹にパン以外でも何でも食べられるとする。この条件の違う3人にパンを1つづつ与えると、それば平等かというと、そうではないでしょう。たとえば朝から食べていないという人に3つ与えてもいいのです。たらふく食べられる人に与えなくてもいいのです。同じ条件でないということを頭に置いておかないといじめや体罰がおこるのです。同じレベル、スポーツの能力じゃないのです。簡単に1回目でできる子もいれば、2回、3回と失敗して5回目でできる子だっているのです。それを一律に、お前出来ないじゃないかとか、遅いとか早いとかということだけで、制裁を加えるということはよくあるのです。体育会系には条件が違うということを頭の中に置いておかないと、こういう間違いをよくやります。グランド走ってこいと言っても速く走れる子もいれば、一生懸命走っても遅い子もいるのです。

 我々のころはしごかれるというと、ウサギ跳びと水を飲むなということだったんです。今君ら考えられないことなんです。グランド1周ウサギ跳びしてこいや、水を飲むなと言われて、今は水を飲め飲めというでしょう。当時は水を飲んだら怒られ、殴られた時代なんです。だんだん科学的なことが出て、そういうことはなくなってきていますが、体質的に同じようなことができない者に対しての処罰というならば、そういう苦しみとかしんどいことをさせるということが今でもあるのじゃないかと思います。

 今君たちは、入学して間がないから、先輩に対してハイハイと言うことを聞いていると思いますが、伝統と伝承は違うということは知っておいてほしい。たとえば入学してきたならば、新入生歓迎パーティーなどで、「この酒飲め」「うちのクラブの伝統なのだ」とがぶ飲みさせられることがよくある。そういうようなことで、死に至るというようなことは今でもあるのです。また、追い出しコンパにおいてお酒が入る。君たちの年齢においてはタバコも酒もだめなのですよね。アルコールが入ると規範意識の欠如ということで不祥事がまた行われていると、これまた新聞を賑わすのですね。そういう1人の行為・行動というものが、全体に迷惑をかけるということはよくあるのです。1人の不祥事が全体の責任をとらせるということがあります。立命館大学は学生の不祥事というようなものの処罰は非常に厳しい。君たちもそういうところを肝に銘じて行動してもらわないと困ります。

 伝統とは変えてはいけないものは変えてはいけないのです。頑固に守らなければならないものは守るのです。だけれど新しい時代であるとか、その時の文化であるとか変えなければならないものは変えるのが伝統なのです。変えて新しいものを創造していくのが伝統なのです。このクラブの伝統なのだと言っている多くは伝承なのです。そのものをそのまま伝えていくというのは伝承なのです。この伝統と伝承とは部活動の中において違いがものすごくあると思います。

 それとセクトを作らないように。何々派とか誰々派とか部活動の中で、誰に属することによってレギュラーの座を取れるとか、そのようなことを未だにしている部活動があるのです。そういうセクトを作らないということを部活動の中では非常に大事なことです。それと、先程言いました体罰とかいじめとか差別もそうなんですが、差別される側に責任があると言っている間には差別はなくならないのです。いじめもそうなんです。いじめられている側にも責任があると言っている間はいじめはなくならないのです。本当にこいつが悪いということがあれば、そこにコミュニケーションがあるのです。話し合いがあるのです。それと暴力で訴えていくというような部活動の体質というようなことがあれば、それは間違いなのだということを頭の中に置いていただきたいと思います。いかにその者に責任があっても、いじめたらだめなのだ。その者に差別されるような要素があったとしても差別してはだめなのだという厳しい規律を、自分自身に備えるような生活を是非していただきたいなと思います。

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